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工場の屋根の上に車が乗っている。左下の人の背丈を比べれば、どれほどに高い津波が来たか、想像がつく。【クリックで大きなサイズの写真が見られます】


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釜石と大船渡の間の、名の知らない村。20mの高さの津波が来て、10mの堤防は切れ、2階建て建家の上に船が乗っている。村は奥の奥まで津波にやられ、全滅だった。【クリックで大きなサイズの写真が見られます】


 さきほど、岩手県宮古市から宮城県気仙沼市を回って東京へ戻りました。5月3日、新幹線・盛岡の駅から宮古へ電車で行き、そのあとは電車が走っていませんので、折り畳み自転車とヒッチハイクの一泊二日でした。
 宮古~釜石で一泊、大船渡~陸前高田~気仙沼までの駆け足でした。阪神淡路大震災の震度5は大阪で経験し、阪神間を何度も往復して現場を見ました。東日本大震災の震度5は東京で経験しましたが、テレビ越しだったので、日本の大きな転換点になる歴史の事実を自分で目で見みたいと思って、訪問しました。

 ヒッチハイクで大船渡で乗せていただいた40歳前後のシロタさん(男)。倉庫で作業をしていたら地震が来て、その後「津波だー!」という声を聞いて、全力で山へ駆け上がったが津波に足をとられ、あっという間に頭の上まで水に浸かった。「オレはこれで死ぬんだー」と思った数秒後、なぜか身体が浮いて杉の木にぶつかった。木につかまって水と一緒に上へ昇っていくと、しばらくしたら水が引いて、助かった。
 陸前高田の菅原さん(男・65歳位)漁師なので海辺で仕事をしていたら、大きな地震が来たので、「これは絶対津波が来る!」と思って、急いでトラックに乗って川の土手の道をひたすら昇っていった。途中で橋を渡っていったトラックは橋と共に津波にのまれたのを見て、後ろから迫る白いしぶきをようやく吹っ切った時は、力が抜けた。家に帰ると、家は流されて何も残っていなかった。命があっただけでも十分だ。

 6人の方々の車に乗せていただき、こういう話を聞きながら、降りては自転車で現場を見に行く2日間でした。想像以上の惨状でした。家なら3階建ての高さになるような工場の屋根の上に車が乗っていました。津波が置いていったのでしょう。大きな町では津波をかぶった部分は壊滅していましたが、他は残っていました。しかし、陸前高田はほぼ町の全体が滅ぼされていました。
 これらの町の間に点在する小さな漁村や漁港は採り上げられませんが、いくつもの小さな村が無くなっていました。高さ10mの堤防と水門は約20Mの津波に倒され、村を3キロ5キロと駆け上がっていました。海から3キロ以上離れた山間の家にまで津波が来るとは思っていなかった所での不明者が多いようです。

 しかし、岩手県普代村には人口約3千人の村に36億円をかけて作った高さ15,5mの水門と防波堤があり、地震直後の高さ20メートルの津波から住民を守りました(行方不明者1人)。津波のあと、防波堤に手を合わせに来た村民が大勢いたと聞きました。やった村長さんとやれなかった村長さん。私たちはこれを社長と置き換えねばなりません。
 今回の訪問で、つくづく「孫子の兵法」の一節を思い知らされました。「兵の形は水に象(かたど)る」。水に形は無いが、行く手を阻むものは時には一気に、時には時間をかけてもうがってしまう――。水の恐ろしさと備えの大切さ噛みしめた2日間でした。